4月30日に永眠された浦井洋・元衆院議員の「お別れの会」に参列しました。
会場いっぱいの参列者が、
浦井さんを悼み、献花しました。
色々な方が、ご挨拶され、
また浦井さんの民医連の医師としての活動、
国会議員としての活動のDVDも上映され、
色々な思いが頭をよぎりました。
私事も入っているので、恐縮ですが、
お時間ある方だけ、お読みください。
浦井さんが、国会で初当選されたのは、
1969年で、私が生まれた年であり、
小さい時から、母親に、
「あんたが生まれる3日前まで、浦井さんのビラをまいてたわ。」
とか、聞かされていたことを思い出します。
また、落選されたのは1990年で、
私は、その年の4月に日本共産党に入ったのも、
まあごじつけではなく、
「共産党は正しい事言うているのに、安武さんも、浦井さんも落ちてもうた」
と思い、
当時の私は、
「中国ネタ(天安門事件)で、落ちてしまうのは、共産党の宣伝の仕方が暗いからやな」
と、まあ半ば本気で思っていて、
「ちょっとでも役に立てれば」と党に入ったので、
浦井さんのおかげと言えば、おかげかなと思っているのです。
DVDでは、懐かしの板宿診療所も登場。
湧谷先生も車いすとなっておられたが、
弔辞を述べられた。
板診は、僕が物心ついた時から、
祖母と行っていた病院であり、
湧谷先生は、主治医だった。
ああ、この診療所の前で、
バザーをやり、僕も売らされたなあとか。
それから、東神戸診療所の映像もあり、
当時の葺合区の状況が、
生前の浦井さんの言葉で語られていました。
日雇いの港湾労働者が多く、
そんななかで、民医連の活動を広げられた様子を聞きながら、
“そうかあ、ここを父親と集金でまわったんやなあ”
と、これも懐かしく、
そして、本当に3畳4畳の家に、
家族がひしめき合って暮らしていた様子を、
当時、僕は小学生だったかと思うけど、
目の当たりにして、色々と考えたことなどを思いだしました。
私も献花をし、
浦井夫人(昔からの言い方でいうと、浦井さんのおばちゃん)
と、本当に何年ぶりだろうか、
多分、25年以上ぶりに再会できました。
浦井さんの選挙の時には、
我が家は、遊説途中の昼の休憩場所になっていたのです。
浦井議員が来られる日は、
朝早くから、近所の党員のおばちゃんらが集まり、
調理師の方を先頭に、ご飯をつくってたこと、
それから浦井さんのおばちゃんが、
私の母に、
「これ案外おいしいから、試してみ」
と、マカロニグラタンの粉?(簡単にできるやつね)を渡していたのを目撃し、
僕が「国会議員も、こんなもん食べるの?」
と聞くと、
おばちゃんが笑いながら、
「当たり前やん。共産党やで(笑)」
と話されたことも懐かしい思い出です。
と、色々と、
自分の初心みたいな事を思い出される「お別れの会」でしたが、
私でも、これだけの思いが一人の国会議員の背後にはあるのだから、
今日参列された多数のみなさんにも、
色々な思いがあるんだろうな。
7期20年というのは重みのある年月です。
浦井さんの業績に思いを馳せ、
また浦井さんを支えた無数の先輩たちの熱い思いを感じた「お別れの会」でした。
浦井洋さん、安らかにお眠りください。
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