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2015年5月31日日曜日

浦井洋・元衆議院議員の「お別れの会」に参列して

4月30日に永眠された浦井洋・元衆院議員の「お別れの会」に参列しました。
会場いっぱいの参列者が、
浦井さんを悼み、献花しました。
色々な方が、ご挨拶され、
また浦井さんの民医連の医師としての活動、
国会議員としての活動のDVDも上映され、
色々な思いが頭をよぎりました。
私事も入っているので、恐縮ですが、
お時間ある方だけ、お読みください。

浦井さんが、国会で初当選されたのは、
1969年で、私が生まれた年であり、
小さい時から、母親に、
「あんたが生まれる3日前まで、浦井さんのビラをまいてたわ。」
とか、聞かされていたことを思い出します。
また、落選されたのは1990年で、
私は、その年の4月に日本共産党に入ったのも、
まあごじつけではなく、
「共産党は正しい事言うているのに、安武さんも、浦井さんも落ちてもうた」
と思い、
当時の私は、
「中国ネタ(天安門事件)で、落ちてしまうのは、共産党の宣伝の仕方が暗いからやな」
と、まあ半ば本気で思っていて、
「ちょっとでも役に立てれば」と党に入ったので、
浦井さんのおかげと言えば、おかげかなと思っているのです。
DVDでは、懐かしの板宿診療所も登場。
湧谷先生も車いすとなっておられたが、
弔辞を述べられた。
板診は、僕が物心ついた時から、
祖母と行っていた病院であり、
湧谷先生は、主治医だった。
ああ、この診療所の前で、
バザーをやり、僕も売らされたなあとか。
それから、東神戸診療所の映像もあり、
当時の葺合区の状況が、
生前の浦井さんの言葉で語られていました。
日雇いの港湾労働者が多く、
そんななかで、民医連の活動を広げられた様子を聞きながら、
“そうかあ、ここを父親と集金でまわったんやなあ”
と、これも懐かしく、
そして、本当に3畳4畳の家に、
家族がひしめき合って暮らしていた様子を、
当時、僕は小学生だったかと思うけど、
目の当たりにして、色々と考えたことなどを思いだしました。
私も献花をし、
浦井夫人(昔からの言い方でいうと、浦井さんのおばちゃん)
と、本当に何年ぶりだろうか、
多分、25年以上ぶりに再会できました。
浦井さんの選挙の時には、
我が家は、遊説途中の昼の休憩場所になっていたのです。
浦井議員が来られる日は、
朝早くから、近所の党員のおばちゃんらが集まり、
調理師の方を先頭に、ご飯をつくってたこと、
それから浦井さんのおばちゃんが、
私の母に、
「これ案外おいしいから、試してみ」
と、マカロニグラタンの粉?(簡単にできるやつね)を渡していたのを目撃し、
僕が「国会議員も、こんなもん食べるの?」
と聞くと、
おばちゃんが笑いながら、
「当たり前やん。共産党やで()
と話されたことも懐かしい思い出です。
と、色々と、
自分の初心みたいな事を思い出される「お別れの会」でしたが、
私でも、これだけの思いが一人の国会議員の背後にはあるのだから、
今日参列された多数のみなさんにも、
色々な思いがあるんだろうな。
7期20年というのは重みのある年月です。
浦井さんの業績に思いを馳せ、
また浦井さんを支えた無数の先輩たちの熱い思いを感じた「お別れの会」でした。

浦井洋さん、安らかにお眠りください。

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